微生物応用技術研究所研究報告集 第16巻 平成24年度 p.5-20
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特別寄稿


1.持続可能な農業をめざして

-自然農法に適応する稲育種の試み-

中井弘和(財団法人微生物応用技術研究所)

一昨年、2010年の春、『土の文明史』(デビット・モントゴメリ著)が翻訳されて出版された。地球規模で活動してきた著名な地質学者渾身の警世の書といってよい。人類史上、いずれの文明も土壌の流失すなわち砂漠化によって滅亡していったことは周知のことである。この著者は、しかし、砂漠化をもたらせた最大の要因が農業のありようにあったことを地質学的観点から証し、過度に発達した機械や農薬・化学肥料に依存する近代農業こそが近く現代文明の深刻な危機を招くというのである。直截に農業のありようから文明の未来を論じる視点は新鮮である。未来への灯りとして有機農業や不耕起の農業に希望を託す記述もまた印象的である。
しかし、残念ながら、この書に引用される膨大な文献はいずれも西欧からのものに限られていて、日本人固有の自然観や身体観に基づいて生じてきた自然農法あるいは有機農業の記述は皆無である。本書が多くの紙面を割いて説明する英国の農学者アルバート・ハワード(1873-1947)が有機農業を提唱していた頃、日本では岡田茂吉(1882-1955)が自然農法を説き、その普及活動を開始していたのである。その後、自然農法は、福岡正信(1913-2008)の著述活動などによって広く人口に膾炙されることになるが、それらが学術研究の対象となることは極めて稀であった。自然農法は、農業技術であることにちがいないが、一方、人の生き方を問う思想としての側面が強い。学術研究になじまなかった主要因であろうか。
技術の創成や新技術の利用の場面で、人の生き方や社会のありようが真摯に問われなければならないというのも『土の文明史』のもう一つの趣旨であろう。自然農法や有機農業が文明を維持し醸成していく希望の証しであるならば、この分野への農学といわずあらゆる学問分野の総合的な取り組みが今後世界的にも緊急の課題となるだろう。本書は、専門性の強いものであるが、訳本の版を重ねているところからも、日本人の心を静かに打ち続けていることがわかる。折から、東日本大震災を経験した日本人には、これまで享受してきた物質文明への深い自省の念といのちへの回帰の願いが確かに芽生えてきているようにみえる。農業のありようを、持続可能なものへと変革していくことが、何よりもいのちを重視する人々の生活や社会に応えていくことになると思う。
私は、1991年、放射線を利用した突然変異育種から自然農法に研究の焦点を移して今日に至っている。本報告では、2004年の大学定年までに行った稲品種の自然農法における適応性の評価に関する基礎研究の成果と、2005年以降、財団法人微生物応用技術研究所で進めてきた自然農法に適応する稲品種育成の経過の概要を示し、持続可能な農業体系の構築の可能性を考察する。